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2022.08.08【観光情報満載】「ゴルフラボ」の記事で岡山城が紹介されました!
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2022.08.08手裏剣くじ 当選結果のご案内
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2022.06.30岡山城大規模改修工事の記録動画を公開!
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2022.05.31リニューアルPR用ポスター「ただいま岡山。おかえり岡山城。」&ミュージックビデオ 第三弾「おかえり岡山城」公開
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2022.05.30100名城スタンプの設置場所変更について
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2022.04.21公式Facebook・Instagramを開設しました
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2022.04.06漆黒の岡山城が姿を現します
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2022.03.14「岡山城」×「歴史を面白く学ぶコテンラジオ(COTEN RADIO)」
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2022.02.10「令和4年11月3日」岡山城リニューアルオープン決定

- 岡山城天守の大改修にあたって展示の監修をさせていただくことになりました。
四つのことを大切にして、このお城をよくしていきたいと思っています。
- ・岡山ゆかりの歴史人物のドラマが感じられる展示にします。
- モノを展示するだけでなく、モノに語らせて、岡山ゆかりの歴史人物のモノ・ガタリが感じられる展示にします。はじめての来城者にも、わかりやすいよう、視覚的・直感的に理解できる展示設計をめざします。難しい解説文を読んでもらうのではなく、目に飛び込んでくる図像・映像を開発し、歴史人物たちの人間ドラマを追った歴史絵巻を見せます。
宇喜多・小早川・池田と続く、岡山城主の史劇は魅力的なものです。リアルな文化財とバーチャルな展示を上手に組み合わせて紹介します。展示では、なぜ、そうなったのか。知的好奇心・探求心に満ちた「学び・気づき・発見」を重視します。そうだったのか、知らなかった、と、感動できることが大切です。
昔の歴史は、いまの岡山につながっています。歴史が現在と地続きです。例えば、岡山市中心部の大きな道路は、なぜ、その位置にあるのか?岡山城の外堀を埋め立てて、その道路がその位置にあるわけですから、外堀がそこに掘られたドラマを見せます。維新以後、外堀が要らなくなって埋められ、さらに岡山空襲で焼け野が原になり、都市計画で道路が拡張された歴史をみれば、見慣れた風景も違ってみえてくるはずです。
展示のなかではコラムのように、ところどころ、ここが面白い!という私の視点(磯田’sEYE)を入れさせていただきます。また来たい。人にも紹介したい。そう思ってもらえる展示にしたいと思います。

- ・岡山城天守の建物としての魅力を高め、分かりやすく紹介します。
- 岡山城は空襲で焼け鉄筋コンクリートになっていますが、全国的にみても、珍しい建物の形をしています。この天守は織田信長の安土城天守に似ているとされ、土台が不思議な形をしています。四角形でなく、下の階が不等辺五角形の奇妙な建物なのです。古い幻の天守の名残りを今に伝えているのかもしれません。また豊臣秀吉の派手好みも反映して、金箔瓦が要所にあしらわれていました。この天守を建てさせたのは宇喜多秀家です。秀吉に可愛がられ、家族あつかいとなり、高い位をさずけられました。その地位を、みえる化する建物でしたから、かつての岡山城は黄金で着飾っていたのです。耐火性・安全性をクリアしながら、調査と研究に基づいた岡山城の建築ストーリーを発信できる内外装にします。

- ・美術館レベルの新しい装置で本物の価値ある文化財を展示します。
- 天守は鉄筋コンクリートの高層建物です。窓も多い建物のなかで貴重な文化財を展示するには、光線・温度・湿度の管理が欠かせません。そこで展示ケースなどを新しく性能の高い装置に変えます。岡山城の城主には、宇喜多秀家・小早川秀秋・池田光政など興味深い武将や人物がいっぱいです。ゆかりの刀剣や甲冑は岡山にもありますが、全国にも散らばっています。保存管理が難しい展示品も、あります。常設展・企画展で安心して来城の皆さまにお見せできるようにします。

- ・誰もが楽しめるユニバーサルな体験型の展示を導入します。
- 展示は誰もが歴史を楽しめるものをめざします。岡山城主になった宇喜多・小早川・池田の三家は、いずれも関ケ原の戦いに参陣して、歴史を動かしました。戦国武将や殿様の暮らしなどを五感で体験できるコーナーを設けます。最新の映像技術をつかった迫力たっぷりの合戦再現ドラマもあります。来城の皆さまを戦国時代に江戸時代に、タイムスリップさせたい。そういう仕掛けを用意します。もちろん、戦国時代の武器や大名道具を復元し、自分で使って武将・お姫様を体験できる一角も作ります。ここは自分で写真を撮って紹介するのもOKです。インバウンドの来城者も増えていますから、多言語対応にも心掛けたいと思います。
かつて、お城は武将のシンボルでした。いまは町のシンボルです。岡山に住んでよかった。訪れて面白かった。そう感じていただけるよう、ぼくの歴史魂を燃やして、渾身の展示を作っていきたいと思っています。
皆さまに、お願いがあります。焼失前の岡山城の古写真をお持ちの方、ご一報いただけないでしょうか。特に天守内部の様子を知りたいのです。ご協力をお願いいたします。

- ・宇喜多の忍者
- 岡山城は忍者にゆかりが深いのです。宇喜多直家が城を築くにあたり、まっさきにやったのは、忍者を「岡山」に忍び込ませることでした。いまの岡山城付近に岡山という丘があって、金光という武士が「わずかの(土を)かきあげ」て小さな砦(とりで)を構えていました。直家は城を築くのに絶好の場所なので、この砦が欲しくてたまりませんでした。そこで岡信濃という重臣に命じて、金光の砦を軍勢で取り巻きました。岡は三人の忍者を家来にしていました。森俊弘氏の研究によると、「なまあぜ源六、西崎おこ右衛門、小橋かん三兵衛など」という奇妙な名前の忍者です。彼らが岡山の砦に「忍び入り、火をかけ」て落城させ、ついに直家は「岡山」を手に入たのです。直家は岡山のとなりの石山(いまの山陽放送付近)を中心に、居城を築きました。直家の子の秀家の時代になると、岡山城としてさらに大きく拡張されました。その時には、有名な伊賀忍者もたくさん雇っていました。秀家は服部藤内という者を忍びの頭にして「伊賀ノ者」を二十人預け、使っています。しかし、宇喜多秀家は関ケ原の合戦で敗れて、八丈島に島流しになり、この忍者部隊は解散しました。服部藤内は、秀家死後は浪人となり「浦間村(現岡山市東区浦間)に住居、同所にて病死」したと伝わります(森俊弘2020『岡山地方史研究』152号所収論文、岡藤三郎・服部弥三郎「先祖並御奉公之品書上」)。彼が宇喜多家最後の忍者だったのでしょう。
- ・小早川の忍者
- かわりに、岡山城主になってやってきたのは、小早川秀秋です。秀秋が岡山城主になれたのも忍者の働きが大きかったのです。関ケ原の戦いの前、はじめ秀秋の小早川家は大坂にいて、石田三成や宇喜多秀家たちの西軍に味方していました。しかし、ひそかに途中から、徳川家康の東軍につくことを決めたのです。スパイとして、関東にいる家康に、こっそり三成たち西軍の動きを知らせることにしました。私の研究によれば、まず秀秋は「足軽十人をつかわし、しのびの者となし」(『寛永諸家系図伝』岡野系図)と、十人の足軽を忍びの者に仕立ててました。この十人を、山岡道阿弥という甲賀忍者の元締めと、家康の外交窓口の岡野(板部岡)江雪斎につけて連絡役とし、西軍の動きをスパイして、家康に知らせました。「三成が謀反の事をうかがうに、あらわれずということなし」と、ありますから、山岡の甲賀忍者と連携したこのスパイ活動は大成功だったのでしょう。秀秋は関ケ原の戦場で突然、西軍を裏切ったように思われがちですが、違います。事実は、開戦前から、水面下で、東軍に味方していて、小早川家の忍び者十人が、家康にずっと情報を送り続けていたのです。秀秋が大谷吉継の陣を背後から襲い、宇喜多秀家の陣も崩れて、関ケ原の勝敗が決したのは、この流れからでした。
- ・池田の忍者
- 関ケ原の戦いで忍者にかかわったのは、小早川家だけではありません。小早川家のあと岡山城主となった池田家も、関ケ原で戦いました。その頃の池田家の当主・池田輝政は家康のお婿さんで、家康方の東軍についていました。この輝政、関ケ原で最初に立てた手柄はこんなものでした。輝政が見回りにでると、「原孫左衛門」と名乗る牢人が現れ、就職活動をはじめました。戦場では、こういう売り込みは珍しくありません。「親類の吉村加右衛門が一柳監物(直盛)様に召し抱えられた。自分も有り付きたい」などと吉村に面会を求めてきたのです。しかし、輝政はピンときました。牢人の刀脇差を預かり、吉村に物陰からその牢人の面体を確認させたのです。すると、吉村はいいました。「たしかに知った者。私同様に牢人でした。でも、このあいだ、(敵の)福原馬之助(右馬助=石田三成の妹婿)方に、黄金3枚で召し抱えられたはず。あやつは紛れもなく忍びの者です」。輝政はすぐにその忍者を捕らえさせ、言いつけました。「井伊兵部(直政)殿が青野ヶ原(関ケ原)にいる。そこへ、(やつを)引っぱって行け!」。井伊直政は「忍びの者を捕らえられたよし。ここまで送られ、一段の手柄!」と、返答したと伝わります。『一柳家記』という書物中に、この記録をみつけました。池田輝政の関ケ原での最初の手柄は、潜入をはかる敵の忍者を見破って、井伊直政につきだしたことだったのです。のちに、この輝政の子・池田利隆や孫の光政などが岡山城の城主となり、池田家もまた、忍者を盛んに使いました(磯田道史『歴史の愉しみ方 - 忍者・合戦・幕末史に学ぶ』中公新書)。忍者は殿様から「御内用」という極秘任務を授かりました。早川八五郎という幕末の忍者は、とくに殿様にかわいがられました。参勤交代の大名行列で、警護をすると、殿様から「煙草入れ」を何度ももらっています。八五郎は「御城において…(殿様の)御手元より金子三百疋頂戴」と、岡山城で殿様のお手元からお金(0・75両)をもらったことさえあります(児嶋小弥太「先祖並御奉公之品書上」池田家文庫、岡山大学付属図書館所蔵)。

- ちょっと、忍者の秘密や実名を明かしすぎました。忍者に怒られそうなので、これぐらいにしておきます。このように岡山城は忍者に縁が深いので、ひょっとすると「令和の忍者」がお城に登場するかもしれません。



